理想を抱いて溺死しない

金曜ロードショーで『耳をすませば』を見た。95年の作品だから、僕が初めて観たのは中学一年生くらいだったんだろうか。記憶は曖昧だが、もしこの作品を中学生の僕が観ていたのならそれはきっと幸せなことなんだろう。

映画作品にしろ文学作品にしろゲームにしろなんだって、それに触れた年齢というのはその作品を評価し影響される上で重要なファクターであろうと思う。だからこそ大人になって振り返ったときに『思い出補正』なんていう言葉が使われる。

劇中で雫は猫と自分を重ねて「かわいくないね」と言う。どうして変わっちゃうんだろう、前はずっと素直でやさしい子だったのに、本を読んでも前みたいにワクワクしないし、こんなふうにうまくいきっこないって思ってしまうと、そう雫は嘆く。

あるものは大志を抱けといい、あるものは書を捨てよといい、あるものは苦労しろという。大人はいつだって勝手だが、ただ確かなことはキラキラ輝く雫も聖司も年をとっていく。そうしてそれを眺める僕は、中学生のときああしていればこうしていればなんて考えを頭の中に巡らせる。

何か新しいことを始めるのに年齢は関係ないというが、幼い頃の僕はそれは大嘘だと思っていた。多くの人は家族を食べさせるために最大限の拘束と労働を強いられる。そして、僕を生かしているのはいつでも、どこかの誰かである。しかし、中学生の雫は気づいた。簡単なことなんだ。あたしもやればいいんだと、彼女は自分自身に言い聞かせる。

    それ故に...悔いの残らぬよう、やり遂げなさい。
 我、生きずして死すことなし。理想の器、満つらざるとも屈せず。
       これ、後悔とともに死すこと無し...

根拠のない自信で我が力の解放を。それが明日を生きる第一歩となりえよう。真に理想を抱くものは溺死なんてしないのだから。

さて、なんか悟ってそうなことを適当に言ったが、なんの話だったか。耳すまの話だった。中学生の僕たちは当時、猫を見かけるたびに追いかけていた。ガキってのはそーゆー風に出来ている。