ファミコン

今日は僕が生まれた83年に任天堂が送り出し、家庭用ゲーム機の礎となったファミリーコンピュータの発売日らしくTwitterのタイムラインではファミコン大喜利が行われていた。それを眺めながら僕は親戚の家でピコピコとゲームに明け暮れた夏休みを思い出していた。

幼い頃、市内にあるトムという猫のいる親父の実家にいくと、僕と弟は決まって二階へと続く急階段を駆け上がりファミコンのスイッチを入れた。そこは僕と一回りほど年の違うお兄ちゃんの部屋で、ファミカセが引き出しにずらりと綺麗に並べられていた。その数はざっと見積もって百本以上はあって、僕と弟は目を輝かせながら、あれでもないこれでもないとファミカセを交換しまくって遊んでいた。

僕の家は笑いの絶えない素晴らしい家庭であったが決して裕福ではなく、当然ファミコンなんて買ってもらえなかった。結局我が家に家庭用ゲーム機がやってきたのは僕が十二才の誕生日を迎えるころで、ファミコンではなくスーファミ聖剣伝説3だった。

そういえば、その前にゲームボーイを買ってもらっていたが、島田君に貸したら手渡しでもポストでもなく玄関の前に放置というウルトラEの返却方法だったことで誰かに置き引きされた。「ツインビーすごくつよい!」と保育園時代に僕の指を折ろうとした島田君の頭の悪さを計算しなかったことは僕の落ち度なのでその件で彼を恨むことはなかった。逆に島田君には感謝している。マルチスクリーンのゲームウォッチもあまり普及しなかったディスクシステムも親戚の家になかったマグマックスもバトルトードも、裕福な家庭環境だった彼という友人がいたからこそ遊べたものがたくさんあった。

余談だが、当時県営住宅の一階が僕の家で周りがご老人ばかりの中で三階が同級生で悪知恵の働く吉村君の家だったので、僕のゲームボーイがどこにいったのかは想像に難くなかった。しかしながら証拠もないので吉村君とはその後もとても親しく遊んだが、少々サドっけのある人だったので僕はあまり好きになれず中学卒業あたりからなんとなく疎遠になった。僕が社会人二年目くらいのときに地元で彼を見かけたが「男は黙って車はシーマ!」と、相変わらずヤンキーにありがちな価値観に磨きをかけていた。

閑話休題

吉村君はどうでもいいんだ。ファミコンの話をしよう。ようするに、自宅に長らくファミコンがなかった僕は自由にプレイできないもどかしさからか、ゲームの魅力に取り付かれ、路地裏のファミコン少年に変わっていって、次第に外で遊ぶよりも友達の家でファミコンを遊ぶ時間が長くなった。

僕には高見君と杉井君という大親友がいた。二人ともファミコンを持っていて、彼らの家に遊びにいくたびにファミコンで遊んだ。当時よく遊んでいたソフトはテクノスジャパンくにおくんシリーズで、特に熱血高校ドッジボール部の対戦は山の手線ゲームのようにボケながらボールを投げるというルールでプレイして、それがあまりに面白くて笑いすぎて高見君のお母さんから怒られてドッジボール禁止になってしまうくらい遊んだ。それからガンダムのカードダスと元祖SDが共通の趣味だった僕らはナイトガンダム物語もよくやった。RPGなので僕は見ているだけだったがそれでも面白くて、今でもあのBGMが頭の中で鳴っている。

そんな高見君と杉井君だったが小学校三年生の一学期の終わりに二人とも転校していった。なんだかどこかにポッカリと穴があいたような心境だった。その年の夏休み、すっかり塞ぎこんでしまった僕は親戚の家に泊り込んでずっとファミコンで遊んでいた。そこは一歩外に出れば綺麗な川と大きな森の広がる豊かな自然に囲まれた田舎だったが、九才の僕は昆虫採集も虫相撲も魚釣りもしなかった。

決してクリア出来ない理不尽な難易度のファミカセと、蝉の代わりのピコピコ音。それが僕の「ぼくのなつやすみ」だった。