パトリシア

八月六日は何の日かと言われたら、日本人的には広島に原爆を落とされた日なんだろうけど、夏休みにテレビの前で黙祷を捧げる習慣のなくなった社会人の僕の中では、その日は嫁さんの誕生日で、これから先もそれは変わることはないんだろうけど、でも僕は自分以外の誕生日を祝うことが苦手というか非常に無頓着な性格なので、アニバーサリー女を傷つけてしまうことが多い。

僕は誕生日が嫌いなわけではなく、幼少期に誕生日を蔑ろにされてきたわけでもないのだけれど、僕自身は誕生日に特別な感慨がないというか、そもそも僕は他人の記念日を祝うという根性がまったくない、そういったつまらない人間なんだと思う。

子どもにとって誕生日はプレゼントをもらえる素敵な一日なんだろうけど、僕は、明日が何の日か知っているかと母に尋ねられてもそれが自分の誕生日だと気付かないタイプの人間だった。多くの人にとって誕生日ってのは自分がこの世に生まれてきた素晴らしい日であり、同時に親に感謝する日であり、僕もまたそう思うし、誕生日は歳をとるのにどうして祝うのかという中二病物語にありがちなどうでもいい展開にも首を捻るだけの考えはあるけれど、僕としてはハッピーバースデーを歌ってケーキを食べてプレゼントを貰う日でしかなかった。それはとても幸せなことなんだろうけど、僕にとって誕生日は誰かが催してくれるものだったから、自分が何かするなんていうことはないとどこかで思っていたのかもしれない。

嫁さんは僕の誕生日を盛大に祝ってくれる。僕はそろそろ誕生日に対する言い訳じみた考え方を改めるべきかもしれないが、やはり今年も彼女の誕生日を盛大に祝ってあげることは出来なかった。

その代わりにと、次の日は一緒に花火大会にいった。嫁さんは喜んでくれていた。その日はちょうどNHK-FMゲーム音楽三昧をやっていて、帰りの車内ではNiGHTSの「Dreams Dreams」が流れていた。ここぞとばかりに興奮して語りだす僕に「今日は一日嫁さん三昧!」と、嫁さんはそう言って笑った。

昔読んだ本の一説がとても印象に残っていて、誕生日は歳を取ったことを祝うわけじゃなくて、今日まで生き続けてくれたことに感謝する日で、だからこそ僕は君に会うことが出来て、プレゼントは感謝のしるしだよと、物語の中で主人公はそう言った。もしそうならば、僕は嫁さんに最大限の感謝をしなければならない。僕は誰かを祝うことが照れくさかっただけなのかもしれない。キミとなら全部幸せさ。